佐藤渡辺
100周年記念サイト

100th Anniversary 100th Anniversary

GREETING
石井 直孝

 1923年12月20日、故渡辺忠治33歳の時に創業した個人営業渡辺組は、本年12月で創業100周年を迎えました。この長きにわたり事業を続けてこられたのは、お客様を始め創業から現在までの社員、これまで応援して下さったすべてのステークホルダーの皆様のおかげであり、心より感謝申し上げます。

 弊社の主要事業であります舗装工事業も100年前は土の上に砂利を敷き、その上を馬車が通っていたわけですが雨のたびにぬかるんで通れなくなる状態でした。その後、自動車の普及もあり、アスファルト乳剤舗装を経て現在のような加熱アスファルト混合物を使用した舗装に変わっていきました。
昭和に入りいくつかの戦争を経験しますが、戦後の国土開発のため縦貫自動車道を建設するため、アメリカに調査を依頼し、世界銀行のワトキンス調査団が派遣されました。その報告書の冒頭に挙げられた「日本の道路は信じがたい程悪い。工業国にしてこれ程完全に道路網を無視した国は日本のほかにない。」という文章は、一般国民への警鐘となり、名神高速道路をかわきりに全国に高速道路網が整備されていくことになりました。その後、オイルショックやバブル景気を経験しますが、バブル崩壊に伴い建設業界も淘汰され、2005年10月に佐藤道路と合併し佐藤渡辺としてスタートすることになりました。

 弊社の経営信条は、「社会の求めるものに応えることを通し、社会に奉仕する。このため会社はその存続発展をはかるに足る相応の利益を挙げる。」です。社是は「誠実、創造、最高の技術」です。何事にも誠実に対応し、我々の仕事は社会に奉仕することであるという精神は、創業以来脈々と受け継がれています。

 世界はいまだに各地で戦争が起き、原油のほとんどを輸入に頼っている我が国は大きな影響を受けています。国内では少子高齢化に伴う担い手不足の問題等、多くの問題を抱えていますが働き方改革に取り組み、生産性を向上させて魅力ある業界にしていかなければなりません。DXやGXの取り組みを始め、様々な課題がありますが、それらの課題に積極的にチャレンジし、持続的に成長する企業を目指して参ります。 皆様にはこれからも末永くご支援・ご指導を賜りますようお願い申し上げます。

2023年12月吉日
株式会社 佐藤渡辺 代表取締役社長

石井 直孝

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1923 - 2023

  • 渡辺組の創業と戦前の事業

    Ⅰ(1945年~)

    渡辺組の創業と戦前の事業

    • 1890-1914

      人生を道づくりにかけた
      渡辺組創業者・渡辺忠治

       「人道」も「道徳」も「道」である。「道造りは人の踏み行うべき道を造ることである」。この言葉を信条に、道路舗装一筋に88年の人生を歩んだ渡辺組の創業者、渡辺忠治。

       忠治は1890(明治23)年、福島県田村郡三春町に、父・忠吉、母・なつの次男として生まれた。20歳になると上京して、攻玉社工学校(現 攻玉社中学校・高等学校)に学び、1914(大正3)年に同校を卒業すると、大阪の合資会社大林組(現・株式会社大林組)に入社した。そして1917(大正6)年に独立するもうまくいかず、その後再度上京して1921(大正10)年、東京市の技手となった。

    • 1923.12.20

      渡辺組の創業

       1921(大正10)年、東京市の技手として忠治が最初に手掛けたのは、明治神宮表参道の歩道をアスファルトで舗装するという工事の監督であった。この工事は、車道両側にある巾7.3mの歩道を約1㎞、10㎝のコンクリート基礎の上に2.5㎝のアスファルトコンクリートを舗設するもので、アスファルトプラントを使用して行われたが、これはわが国でプラントを使用した最初の工事と言われている。忠治はその後、1922(大正11)年に日本アスファルト工業会社へ移籍したが、同社での最初の仕事も明治神宮だった。しかし着工後まもなく関東大震災が発生し、工事は中止となってしまった。さらに会社も先行きの見通しが立たなくなるという事態の中、忠治は職を失うことになったが、これを機として、忠治は再び独立の道を選ぶことにした。そして1923(大正12)年12月20日、ついに渡辺組を創業したのである。

       創業当初、渡辺組は鉄道省の木塊舗装などの下請け仕事を手掛ける中、並行して、明治神宮の表参道車道舗装工事を引き受けた。以前、東京市の技手として同参道の工事に従事したときは歩道の舗装であったが、今回は一業者として車道のコンクリート基層の施工を任されたのである。この工事の出来は、当時の土木局長から高く評価されることになった。

    • 1931-1938

      株式会社渡辺組の設立

       1931(昭和6)年、渡辺組は下請けで横須賀海軍航空隊の追浜飛行場の舗装工事を施工した。

       1938(昭和13)年にも同じく下請けで山東省青島の海軍飛行場滑走路の舗装を行ったが、これは26万㎡にも及ぶ面積を4カ月で仕上げるというタイトなスケジュールで、砕石を付近の山から採取して手割りし、砂は付近から運んで夜間に乾燥させるという困難な工事であった。さらに、職員や作業員が水にあたって赤痢を発症したため、少人数で現地雇用の300~400人の中国人労働者の管理から事務作業まで行わなければならないという事態に陥った。苦境の中、忠治は工夫を凝らす必要があったことから、労働者には働きに応じて賃金をはずみ、おやつの支給や作業服を新品に交換するなど待遇面に特に配慮した。その結果、労働者の意欲が跳ね上がり、工期内で完遂することができたのである。

       この工事の成功は忠治にとって大きな自信となり、1938(昭和13)年12月、個人経営の渡辺組を改組し、株式会社渡辺組とした。資本金は18万円で、営業種目を「土木、建築請負工事一式」とした。

    • 1938-1945

      滑走路舗装の増加と終戦

       戦時中、渡辺組は飛行場の滑走路舗装や補修工事を数多く手掛けた。1938年から終戦までの間に受注した工事は、外地の満州、内地では北海道の帯広陸軍飛行場、鳥取県の大篠津飛行場など、その数は23にも及び、中島飛行機株式会社などの軍需会社の工場内の工事も増えた。そのさなか、本土空襲が現実味を帯び、渡辺組の本社所在地である東京市麻布区の付近一帯が建物強制疎開の指定を受けることになった。忠治は労務報国会の役員をしていたため、立場上、率先して自社の事務所や付近の建物を壊さなければならず、建物疎開地帯に隣接する忠治の自宅を渡辺組の仮事務所とした。

       1944(昭和19)年に入り、米軍による本土空襲が頻繁に行われるようになった。軍需施設が標的となり、渡辺組が手掛けた中島飛行機武蔵野工場も爆撃された。翌1945(昭和20)年3月には東京の下町が大空襲を受け、5月の大空襲によって麻布地区一帯も灰燼に帰し、渡辺組の仮事務所も焼失してしまった。8月に入ると、6日に広島、9日に長崎に相次いで原子爆弾が投下され、同月15日、日本の無条件降伏をもって太平洋戦争は終結した。

  • 復興・成長期の渡辺組と成和土木の創業

    Ⅱ(1971年~)

    復興・成長期の渡辺組と成和土木の創業

    • 1945-1968

      苦境からの復興、高速道路への参画

       終戦後、渡辺組は焼け跡に建てたバラックの社長宅の一部を事務所にして、一日も早い復興を目指した。人員と資機材をかき集め、1945(昭和20)年の栃木県宇都宮市内の舗装工事を皮切りに、東京都内や横浜市内の道路舗装工事を次々と手掛け、1947(昭和22)年からは元請工事を受注するようになった。その後は関東圏内だけでなく、東北や中部地方にも仕事の領域を広げていった。

       1956(昭和31)年、愛岐道路舗装工事において大赤字が発生し、経営悪化に追い込まれることになったが、必死の立て直しにより業績回復すると、1967(昭和42)年に東名高速道路静岡-薩埵舗装工事、続く1968(昭和43)年にも富士-裾野間舗装工事を受注し、念願の高速道路へ参画を果たした。この工事のために米国のバーバーグリーン社より購入したアスファルトプラントは大型であったため不安視する向きもあったが、同工事を完遂させた後も大活躍することとなった。また公害問題がクローズアップされる中、他社に先駆けて粉塵処理に洗浄集塵装置・ロートクロンを使用して注目を集めた。

    • 1951

      東京ガスの復旧工事

       1951(昭和26)年、渡辺組は横浜市鶴見区安善町のガス管工事跡道路復旧工事を受注した。これが東京ガスの道路復旧工事を手掛けた最初である。1955(昭和30)年、東京ガスは一級国道一号線の道路復旧工事に際して慎重を期し、建設省の出先機関および横浜市道路局に施工業者の選定を依頼した。折しも同年、渡辺組は横浜西口広場の舗装工事において横浜市から感謝状を贈られており、建設省の出先工事事務所および横浜市の推薦を受けることになったのである。当工事の施工技術は東京ガスの監督者からも高く評価された。

    • 1965

      新社屋竣工

       1965(昭和40)年12月、渡辺組は新本社社屋を竣工した。それまで「会社は外観ではなく、誠実に仕事をしておれば必ず認められる」という忠治の考えにより、1947年に入居した社屋に対し増築を繰り返して使用してきたが、狭小化と老朽化が業務に明らかに支障をきたすようになったため、本社社屋の新築を決意したのである。機械置場だった土地を新社屋の場所に定め、第一期工事として1965年12月に敷地面積419㎡、地上3階地下1階の鉄筋コンクリート造の新社屋を、1969(昭和44)年9月に第二期工事として6階建ての社屋が完成した。新本社社屋は業容拡大に対応しただけのものではなく、経営のシンボルとして、また、従業員が新たな誇りと意欲とを抱くにふさわしい存在となった。

    • 1951

      佐藤道路・成和土木の設立

       佐藤道路の歴史は、1951(昭和26)年11月26日に山本将雄が立ち上げた成和土木株式会社より始まる。成和土木の資本金は125万円で、本社は中央区日本橋兜町に置いた。

       創立後早々に、沖縄県の知花プラント敷地内にあるアスファルト合材製造工場の工事を松村組の下請けで施工した。合材を運んで舗装する専門下請け業者は成和土木以外にほとんどなく、松村組から紹介を受けたゼネコン二十数社の下請け仕事を一手に引き受けることができた。米軍の信頼を得た成和土木は、その後も引き続き沖縄で数々の仕事をこなし、約2年の間に出荷した合材は約36万トン、舗装した道路は約350万㎡に及んだ。

  • 豊かさに向けた道路建設の歩み

    Ⅲ(1971年~)

    豊かさに向けた道路建設の歩み

    • 1971

      渡辺忠雄の社長就任

       1971(昭和46)年2月、渡辺忠治社長が退任して会長となり、新社長に忠治の長男である渡辺忠雄が就任した。忠雄は就任に当たり、誠実・親切をモットーとすること、従業員に安心して働ける職場環境を提供すること、社会の要請に応えること、社会貢献を究極の目標とすることを公言した。渡辺組は創業以来半世紀近くもの間、忠治が掲げた「誠実・親切・最高の技術」に則って道路舗装に従事してきたが、忠雄はこれに「創造」を加え、ここにあらためて「誠実・親切・最高の技術・創造」を社是とし、ますますの発展を志向することとした。

    • 1982

      東京瀝青混合所横浜工場

       1970(昭和45)年公布の「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」により、コンクリート塊やアスファルト塊が、産業廃棄物として排出抑制と適正な分別・処分・再生などを求められるようになる中、渡辺組はアスファルト系道路廃材の再生処理工場として、横浜市瀬谷区目黒町に東京瀝青混合所横浜工場を開設した。業界の先陣を切って再生合材事業に着手したのは、当時社長だった渡辺忠雄が米国視察の折リサイクルの実情に触れ、必ず日本にもリサイクルの時代が来ることを確信したからである。建設省(現:国交省)による経年劣化調査で新規合材と同等の品質であることが認められると、多くの依頼が舞い込むようになり、出荷量は順調に伸びていった。1982(昭和57)年6月にはプラントを建て替え、製造能力を2倍以上に増強するとともに、100トンの合材サイロ2基を装備した。新プラントではアスコン塊や路盤廃材、遮断層材を、昼夜・天候を問わず受け入れ、アスファルト混合物や路盤材料にリサイクルし、資源の有効利用をさらに推し進めた。

    • 1972

      佐藤欣治の社長就任と佐藤道路への社名変更

       1972(昭和47)年10月1日、成和土木は社名を佐藤道路株式会社に商号変更し、本社を中央区日本橋小伝馬町に移転した。新代表取締役社長には佐藤欣治が、佐藤工業社長と兼務して就任した。社名変更に際し佐藤社長は、「当社の業績を向上させるには何よりも工事量の拡大が先決である。そのために全員が営業マンとしてのセンスをもって受注活動を心掛けることが重要である」と断言した。

      新生佐藤道路の歴代社長

       1981(昭和56)年12月、佐藤欣治に代わり、佐藤和雄が代表取締役社長に就任した。佐藤新社長は就任に際し「競争力はいかなる制約条件をも乗り越えていく企業、さらには社員の『勢い』がその原点である」とし、「あらゆる部門が横断的連携の下に事業展開を図り、他社に優る新しい戦略を生み出さなければ真の競争力の結実はない」と、従業員を鼓舞した。

       1987(昭和62)年12月、佐藤和雄に代わり、代表取締役社長に能登常一が就任した。能登は「新しい発展に向けての重要な時期にあり、当面は社内の融和、つまり、成和土木時代からの人員と佐藤工業から派遣された人員、佐藤道路になって以降に入社した人員を一つにまとめ、活性化に尽くしたい」と語った。

       1991(平成3)年4月、能登社長が逝去し、代表取締役社長に本間俊朗が就任した。本間は「佐藤欣治氏のよきカラーをもつ佐藤工業グループの一社として、一人一人が楽しく仕事にまい進できる会社にしたい」との意向を示した。

    • 1983

      パーミアコンの開発とつくば万博での採用

       1983(昭和58)年12月、佐藤道路は本社9階会議室において、自社開発商品、パーミアコン舗装(透水性コンクリート=Permeable concrete)の新聞発表記者会見を行った。コンクリート系の透水性舗装材料はこれまで存在しなかったことから、市場開拓に向け営業・技術開発ともに鋭意取り組んだ。その結果、国際科学技術博覧会、科学万博-つくば’85(以下、つくば万博)での採用が決まった。つくば万博には、名だたるゼネコンや設計事務所が出入りしていたため、営業面で大きなプラスとなった。

       1983年のパーミアコンの開発に伴い、パーミアコンを軸とする新商品開発と新規領域への進出を積極的に行った。佐藤道路独自の開発商品であるパーミアコンの売り込みによって新たな顧客先の開拓が進むとともに、建設省および道路公団からの受注も下支えとなり、1987年に受注高が念願の200億円を突破した。また、民間からの受注増大の影響を受け、1990(平成2)年の受注構成は民間工事が初めて60%台になった。

    • 1980

      北陸自動車道湖北舗装工事

       湖北舗装工事は、渡辺組と佐藤道路が初めてJVを組んだ案件である。当時、8~9mの幅員に対応するアスファルトフィニッシャは外国製が主流であったが、国産の油圧伸縮スクリード装置付きアスファルトフィニッシャを使用したのは、この工事が最初である。天候をはじめとするあまたの困難を乗りこえ、1980(昭和55)年4月7日、無事に開通式を迎えたこの日、道路公団が6年7カ月をかけて取り組んできた敦賀-米原間が開通となり、北陸と京阪神、中京方面を結ぶ日本の新たな大動脈が誕生した。

  • デフレ経済下の両社の経営

    Ⅳ(1996年~)

    デフレ経済下の両社の経営

    • 1996

      渡辺忠泰の社長就任

       1996(平成8)年11月、渡辺忠雄に代わり、忠雄の長男である渡辺忠泰が新たに渡辺組代表取締役社長に就任した。忠泰はTQC活動の普及などに携わり、取締役、事務本部長、営業本部長などを経て、1991(平成3)年より副社長として忠雄社長を支えてきた。

       忠泰新社長は就任に際し、「渡辺組で同じ釜の飯を食う仲間として、一人ひとりがその責任を自覚し、楽しく、愉快に、そして安全に仕事を進めていこう」と呼び掛け、さらに経営理念と行動規範の重要性を指摘し、経営理念・行動規範カードを作成して社員に配布するなど、今までにない試みに果敢にチャレンジした。

    • 1997

      松野三朗の社長就任

       1997(平成9)年6月、佐藤道路は本間俊朗社長に代わり、松野三朗が代表取締役社長に就任した。松野は社長就任に際し、「国の大動脈である道路建設を担っていることに誇りをもってやっていくこと」、そして「勤勉に仕事に取り組むこと」の2つを従業員に訴えた。

    • 2002

      中垣光弘の社長就任

       2001(平成13)年6月、佐藤道路は松野社長に代わり中垣光弘が代表取締役社長に就任した。厳しい環境のなかで社長に就任した中垣は、事故のない良い仕事をして工事成績を上げることが仕事の確保につながるとし、舗装工事が仕様規定から性能規定へと変化するに伴い、優れた技術を有する企業となるべく、新たな技術開発を進めるとした。また、民需への積極的な営業活動を継続することに加え、施工単価の圧縮やエコベースの全国的展開の実現などにも言及した。

    • 1999

      山形自動車道月山舗装工事

       渡辺組と佐藤道路が共同企業体を組んだ、山形自動車道の西川I.C.と月山I.C.間の16.5kmのうち月山寄りの9.2kmの舗装工事である。地すべり地帯という難所であったが、当工事の表層には、路面排水機能を有した舗装(現 高機能舗装Ⅰ型)を行い、トンネル内のコンクリート舗装の表層仕上げには、すべり抵抗の向上・粉塵や騒音の低減に効果のある骨材露出工法を採用した。月山周辺は日本でも有数の豪雪地帯で、道幅が狭い上に急カーブがいくつもある国道に替わる山形自動車道が開通したことは、地元の人たちに大変喜ばれることになった。

    • 2002

      東京外国語大学基幹・環境整備(屋外運動場等)工事

       東京外国語大学(東京都府中市朝日町)のグラウンド新設工事は渡辺組にとって施工実績の稀な屋外運動場の工事である。全天候系のポリウレタン舗装(トラック部分)において、最下層の開粒度アスコン層から表層のトップコート層まで8層もの施工を行うなど、多くの工夫を必要とした。特に表層材は1層の厚さが1㎜~5㎜で、下地のアスコン舗装の仕上がりに精密さが求められるため、開粒度アスコンをアスファルトフィニッシャで敷き均す都度、厚さのチェックをし、何度も修正を繰り返した。その結果、規格内の平坦性を確保するとともに、上質なポリウレタン舗装を完成することができた。

    • 2004

      岩瀬地区街路修景工事

       佐藤道路は景観事業での実績が認められ、富山市の計画を推進するコンサルタント会社からの依頼を受け、岩瀬地区の古い街並みにふさわしい舗装材として「ウォッシャブルコンクリート」を提案した。丸石と千里浜サンド を洗い出した、作業性の良い均質なコンクリートである。岩瀬地区から東富山駅へ向かう歩道の舗装も行うこととなり、景観を重視してデカラペーブ(自然石加熱型樹脂舗装)を採用してカラー舗装を行った。ウォッシャブルコンクリート表面処理剤工法は佐藤道路として初めての施工であったが、その仕上がりの美しさは高い評価を得ることとなった。なお、後に富岩運河に併設された「世界一美しいスターバックスコーヒー」で有名な、富岩運河環水公園の舗装も佐藤道路が担当し、富山県の住宅の瓦屋根を再利用したサーモスカラーコンクリート舗装を行った。

  • 佐藤渡辺の誕生

    Ⅴ(2005年~)

    佐藤渡辺の誕生

    • 2005

      株式会社佐藤渡辺の誕生

       渡辺組は経営環境の好転が見えない状況下、業績回復の決定打がなく、会社存続の危機を覚えていた。一方、佐藤道路も親会社の佐藤工業の会社更生法適用による痛手を受け止めきれず、東亜道路工業が仲介する形で渡辺組と佐藤道路の間で合併に向け、協議を進めることになった。営業エリアの重なりが少ないこと、顧客先をめぐる競合が少ないこと、独自の保有技術の領域が重複しないこと、合併によるスケールメリットが期待できることなどが決め手となり、2005(平成17)年5月に合併契約書を締結した。渡辺組を存続会社として佐藤道路は解散、資本金は17億5,150万円で、新社名を株式会社佐藤渡辺(英文社名はWATANABE SATO CO.,LTD.)に決め、10月1日よりスタートした。

       代表取締役会長に佐藤道路代表取締役の中垣光弘、代表取締役社長に渡辺組代表取締役の渡辺忠泰がそれぞれ就任した。渡辺組と佐藤道路がともに社是としていた「誠実」「創造」という言葉を生かし、佐藤渡辺の社是は「誠実・創造・最高の技術」とした。経営信条は渡辺組の「社会の求めるものに応えることを通し、社会に奉仕する。このため会社はその存続発展をはかるに足る相応の利益を挙げる。」を掲げた。

       新会社のスタートにあたり渡辺社長は「この合併は対等合併である」という想いを述べた。その言葉を旗印に従業員の心を一新し、一体感の醸成を図った。

    • 2008

      北海道横断自動車道新得舗装工事

       佐藤渡辺として初めてJVで受注した元請工事が、北海道横断自動車道新得舗装工事である。高速道路の新設工事で、請負金額が22億円を超える大規模案件となった。当時、全国的に排水性舗装が主流であったが、北海道ではチェーン着装や除雪などによる早期の損傷が多発していたため、積雪寒冷地に適した表層としてNEXCO東日本北海道支社で研究・開発した高機能舗装北海道型が採用された(当初設計はハイブリッド舗装 )。

    • 2008

      第二名神高速道路安坂山舗装工事

       この工事は、当社として初めて大規模なハイブリッド舗装を施工した現場である。地域住民に向けたイベントにも積極的に参画し、工事期間中には現場見学を行い、子どもたちを集めて床版にチョークで思い思いに落書きしてもらったり、舗装完成後はウォークイベントを実施した。また、トンネル壁面に使用するタイルに自由に文字を書いてもらい、それを焼き付けて鈴鹿トンネルの県境の辺りにまとめて張り付けるというイベントもあった。当社の従業員も参加し、工事への思い出を綴った。

  • 新たな使命への取り組み

    Ⅵ(2011年~)

    新たな使命への取り組み

    • 2011

      東日本大震災の発生

       未曽有の大震災となった東日本大震災の発生を受け、佐藤渡辺は燃料不足や食料不足に対応するため、本社工務部が窓口となり他支店に支援物資の提供を依頼し、震災翌日には有志支援部隊が燃料や食料などをトラックで運搬した。

       被災地域では岩手県大船渡市の沿岸にあった岩手営業所が津波によって壊滅し、子会社の従業員1名と作業員1名が亡くなった。大船渡合材工場は設備の一部が損傷を受けたが、被害のあった箇所を早急に修復し、3月25日には合材の出荷を開始した。仙台合材工場は石粉サイロが倒壊したが、中古品を調達し、3月25日には仮設復旧した。

       あまりにも甚大な被害を前に流通経路が断たれ、被災地では当初なかなか衣類や食料などの物資が行き渡らなかったが、2カ月ほどしてようやく落ち着きをみせた。さまざまな状況を見極め、2012(平成24)年4月に震災対策本部を復旧対策本部に移行し、以降、被災地の復興工事の施工にまい進した。

    • 2012

      縦取り式スリップフォーム工法の開発

       人手不足や施工効率化への対処が求められるなか、横取り型供給ベルトコンベヤでのコンクリート供給作業に替えて、同一車線で一連の作業が行える「縦取り機を使用したコンクリート舗装」を2000(平成12)年6月に開発した。母機を中心に全長32mのオーバーハング型のベルトコンベヤを装着、鉄筋組立て作業用に地上との間に2mのクリアランスを確保し、生コンクリートの供給と並行して鉄筋の組立て作業ができるようにした。これによって通行車線を常時確保できるようになり、また、3DMCシステムや自動操舵装置を使用することで高精度・高品質なコンクリート舗装を実現した。

    • 2014

      上河忍の社長就任と100年企業ビジョン

       2014(平成26)年6月、渡辺忠泰に代わって上河忍が代表取締役社長に就任し、渡辺忠泰は会長として経営をバックアップすることになった。上河は就任に当たって、経営信条と社是を常に念頭において業務を遂行してほしいと従業員に呼び掛けた。さらに、「企業は人なり」の精神に沿って、より優秀な人材を誇る企業として成長していきたいと述べた。

       上河は佐藤渡辺が安定的発展を継続するために、明確な経営ビジョンを持つこと、「伝統の継承」と「時代の変化への対応」の的確な采配、「企業は人なり」の精神を疎かにしないことを、あらためて所信として表明した。併せて、「事故は減らすのではなく、無くすのだ」との強い信念を胸に、「安全と安心」を確保することが何よりも大切であるとした。

       2015(平成27)年初頭、「100年企業ビジョン」を作ることを宣言し、同年12月に「創業100周年ビジョン ~創業100周年(2023年12月)のありたい姿~」を社内に向けて発表した。定性目標として、1.ステークホルダーの期待に応え、信用され続ける企業、2.持続的収益を基盤として、社員に安全・安心を与える企業、3.人と地球に優しい環境技術を追求する企業、の3つを掲げた。定量目標(2023年3月期)は売上高400億円、経常利益20億円、内部留保100億円とした。成長戦略としては、「近い将来、道路整備は『量の時代』から『質の時代』に転換し、技術のある会社が生き残る」ことを想定し、技術開発への投資、コンクリート舗装補修技術と施工体制の強化、新事業分野への進出、海外への進出、人財育成(採用、教育、女性・高齢者活用)を挙げた。

    • 2013

      合材工場の刷新

       町田合材工場は1976(昭和51)年の改築以来30年以上が経ち、主要機械や骨材ストックヤードなどの老朽化が著しく進んでいた。合材販売数量が年々減少していく状況下、再生アスコンも取り扱えるようにするなど根本的な見直しが必要となり、近隣住民に配慮して騒音や振動を抑え、清潔感のある外観にすることも求められていた。同工場は改良土販売、特殊製品販売、建商で確実に利益を積み上げてきた実績があることから、地の利も生かして新規合材・再生合材・特殊合材の販売を主軸にリニューアルすることとした。骨材の貯蔵にコルゲートサイロを採用して省エネルギー化を図り、プラント能力を60トン/時として周囲に外壁を設置した。合材サイロは100トン・120トン・140トンの3基にし、連続運転や夜間運転への対応を行うものとした。また、常温増量方式による再生合材の製造装置を設置したほか、通常合材と特殊合材の同時出荷を可能にし、他工場からの特殊合材の出荷依頼にも対応できるようにした。

       横浜合材工場も1978(昭和53)年に改築して以来30年以上が経過し、開所時にはほとんどなかった高層マンションが周辺に建ち並ぶようになったことから、騒音や景観に対応するべく2015(平成27)年、全面的な建て替えとなった。プラント能力はVプラント、Rプラント共に100トン/Hと現状維持としたが、ユニット型でコンパクトなものを採用し、多種多様な合材製造を行うと同時に排熱利用による燃費の低減を図った。合材サイロは従来の3基体制を4基体制にして新規合材の重複対応を可能とし、連続運転による燃費の低減を図った。クラッシャー施設は現状に応じて能力を150トン/Hから100トン/Hに変更し、コンパクトで容易にメンテナンスができるようにしたほか、製品ストック量のアップを図った。

    • 2018

      石井直孝の社長就任

       2018(平成30)年4月、上河忍に代わって石井直孝が代表取締役社長に就任した。石井は当初の方針として、粗利益の確保および安全・安心の確保を掲げた。粗利益確保の具体策としてi-constructionによる情報化施工の推進や協力会社の教育、部署間協力の強化を挙げ、生産性の向上を目指すこととした。生産性向上による労働時間の削減に向け、年度ごとに残業時間の目標を表明し、働き方改革推進を宣言した。また、2019年より「利益に対する意識改革」を掲げ、事後精算ではなく事前に変更契約を結んだ上で工事を開始すること、サービス工事は行わないことを徹底した。「利益=工事金額-工事原価であり、利益を増やすには工事金額を増やし、工事原価を減らすことである。工事原価を減らす努力は継続していくが、今後は工事金額を増やす努力に注力することでさらに利益を増やすことができると考えている。良いものを作り表彰されることも評価に値するが、過剰品質でなく適正品質で施工することが重要である」と訴えた。そして安全・安心の確保については、安全衛生活動の継続的改善に取り組み、皆が安全で安心して働ける職場環境を作ることを宣言した。

  • 未来に向けて

    未来に向けて

    環境に配慮した事業展開

    都市部のヒートアイランド・
    雨水流出制御

    インフラの強靭化・
    老朽化対策の取り組み

    再生可能エネルギー・
    脱炭素社会を目指す

    • 横浜アスコン 太陽光発電
    • 幸田・小牧アスコン
      カーボンニュートラルLNG導入

    事業活動を
    誠実に実践し、
    社会に貢献する企業へ